高校生の僕がなぜ海外留学を決断したのか?

高校を卒業後、アメリカに渡り、世界トップ校であるカリフォルニア大学ロサンゼルス校を卒業しました。
そんな僕が、どのように海外留学を決断し、UCLAを卒業することができたのか。
今この場で、全てを語りたいと思います!!
スポーツバカの高校生活
僕は、日本育ちの日本生まれ。大都会である横浜で過ごしました。
どこにでもいるスポーツしかやってこなかったバカ高校生でした。
勉強は全くできず、なぜ勉強をやらないといけないかもわからないから、する気もない。
朝7時には体育館に行き、バスケのシュート練を一人でこなし、
授業中は寝る時間で、放課後になると部活に行き、夜まで必死に練習。
休日もほとんど休むことなく、バスケに没頭していました。
練習のおかげで、高校1年生の時から試合に出させてもらうこともでき、充実した高校生活を送っていました。
怪我で選手生命を失う
そんなある日、重要な試合の直前に腰が痛いことに気づく。
バスケで怪我はよくあることで、「疲れが溜まっているのかな?」くらいにしか思っていませんでした。
しかし、数週間してもその痛みは治ることはなく、痛みは強まるばかり。
僕の部活の先生はよくいる日本の鬼コーチ。それに加え、やっと公式戦などにも参加する機会が増えてきていた矢先だったので、僕としても絶対練習を休むわけには行かなかったのです。
結局、ずるずると腰が痛い中練習を続けた結果、悲劇が起こりました。
なんと朝ベットから起き起き上がれなくなっていたのです。足が完全に麻痺し、動かしたくても動かなかったのです。
すぐに病院に連れて行ってもらい、精密検査を受けました。
症状はなんとヘルニア。
度重なる練習の衝撃で、僕の腰の神経が少し飛び出て、骨に当たっているというのです。
医者からは、
「もう少し症状が悪化していたら、手術をしないといけないところだったよ。」
と言われたほどでした。
重要なのは、いつバスケの練習を再開できるのかだけだった僕は、
「いつまたバスケできますか?」
と聞くと、医者は、
「それが、もしかしたらもうできないかもしれない。 リハビリしても、同じように動いたら症状が悪化してしまう。」と言いました。
バスケに人生を捧げていた僕の高校生活は、ここで幕を閉じることとなった。
英語に興味を持ち始める
バスケ漬けだった僕が、怪我によりしばらく歩き回ることもできなくなった。
少しでも動くと腰が痛いので、咳やくしゃみですら涙目になる。
また、上達していくチームメートを見ながら精神的にも、辛い時期でもあった。
そんな中、ベットの中で見た映画やドラマに夢中になり始める。
それまで洋画を見ることは少なく、アメリカのドラマを見初めて、動けない惨めな自分を忘れることができた。
そして、とにかく海外の自由で楽しそうな生活にどんどん惹かれる自分がいた。
もちろん英語が全くわからない僕は、字幕で見ていたのだが、
いつしか「字幕なしで全部わかるようになったらいいのになー」と思うように。
また、英語という言語がとても綺麗で、洗礼され、かっこよく聞こえ、英語を喋りたいという想いが強くなっていた。
恩師との出会い
「英語が喋れるようになりたい!」という思いは日に日に強くなっていったが、
スポーツしかしてきてなかったので、何から手をつければよいのかさっぱりわからなかった。
そんな中、僕は今でも感謝している恩師である、高校の英語教師と出会うことになる。
少しでも早く英語をマスターしたかった僕は、放課後、その教師元に行き、
「英語ができるようになりたいです。どんな課題でもやるから、教えてください。」とお願いした。
その教師は、「なんだ。今まで授業すらまともに聞かなかったスポーツバカがいきなり何を言いだすんだろう。」と思ったに違いない。
でも教師は、半信半疑ながらも僕にその教師は単語を覚えるようにいい、2001という単語帳をくれた。
「この単語を全部覚えたら、違った世界が見えるよ。」
そう、この会話が僕をアメリカに連れて行くことになるのだった。
★合わせて読みたい→【英単語暗記】英語偏差値28から、アメリカ一流大学に合格できた僕の英語勉強法!
英単語の基礎を固めるため、僕が実際に使った単語帳。恩師の言葉を信じて全部覚えました。
将来どうしよう? ってか大学どうしよう?
英語を話したいという目標ができた僕だったが、同時に考えないといけないのは、進学の問題であった。
僕の母親が教育熱心だったのか、将来行ける大学を高校の早いうちから探しており、
休みを見つけては大学のオープンキャンパスに一緒に行っていた。
僕としては、「スポーツが好きだから体育の先生になれればいいかな」くらいにしか考えていなかったので、体育系の大学を見ていた。
しかし、どうもしっくりこない。ワクワクしない。
この時点では、英語を喋れるようになりたい。という思いだけだったため、将来何をしたいのかなど考えもなく、「どうしよう」という不安だけが募っていた。
海外の大学という選択
唯一頑張っていたバスケも選手生命が途切れ、勉強もできない。そして、将来何をやりたいのかもわからない。
僕は本当に苦しんでいました。
そんな中、ある本に出会うことになる。たまたま、数年前の卒業生が教室の棚に置き忘れて行った本なのだが、
「海外留学ハードbut楽しい―本気の学びは、人生を変える!」という本。
それを読んだ僕は、正直ワクワクが止まらなかったです。
日本から留学するため、必死に勉強をする若者の様子。ものすごい分厚い教科書を徹夜して勉強する様子。 それは海外大学に留学するという挑戦のお話でした。
今まで、英語は話せるようになって見たいというぼんやりした思いから、「留学をしたい」という具体的なアクションを考えることができる本でした。
目指すは、海外の大学
その本をすぐに読破。母親を連れ、その本を出版したNICという留学機構に向かい、話を聞いたり、無料の英語教室を受けたりしました。
NICというのは、海外留学を目指す人の英語塾のようなところで、海外のいろんな大学と提携関係にあり、世界中の海外大学に学生を送り出す学校でした。
そこでは、海外の大学の仕組みから、有名大学に進学した先輩たちの話などを聞き、「英語をできるようになりたい」という目標から、「英語を使って、海外大学で勉強する。」という目標に変わりました。
結局、アメリカの大学を目指す上で、僕はNICを選ばなかったのですが、TOEFLの勉強をするために、トフルゼミナールという塾に通うことになりました。
アメリカの大学受験
海外大学進学を目指す人にとって最難関なのは、やはりTOEFLという英語のテスト。
英語学習を始めたばかりの僕には本当に苦痛となる勉強でしたが、とにかくストイックに勉強を頑張りました。
周りの同級生が日本の大学を目指す中、僕は海外の大学を目指していたので、まわりの受験生とやることが全く違う。
なので完全に割り切って、学校の授業は、全く聞かず必死に英単語の復習。放課後には、夜9時まで塾で授業。その後、家に帰ってから復習。
電車に乗っている間や、歩いている間には、スキマ時間を活用して、とにかく単語を覚え、机に向かって勉強できる時には、ライティングやリーティングの練習をしました。
その頃の熱中ぶりは、家族旅行に行っても、歩きながら単語帳を読んでいるほど異常に熱中していました。
その勉強のかいもあり、無事カレッジの求めるTOEFLのスコアは取れ、出願。
無事、カレッジに進学することになりました。
★僕がカレッジに進学した理由とは?→世界トップ大学を目指すなら
★カレッジへの出願方法→カレッジ出願から合格までの全ステップを細かく説明します!
海外大学進学を反対される
最後に、僕が高校生に時にあったこんなエピソードがあったので、紹介します。
ある日、担任の先生に「海外大学に進学したい」ということを伝えたことがありました。
その時は、まだまだ海外の大学を受験する数ヶ月前だったのですが、なぜか、怒り気味に反対をされました。
自分が進みたい道をやっと見つけ、海外大学進学に全く抵抗感がなかった僕は、面をくらいました。
今思えば、担任の先生が反対をした理由は3つなんじゃないかなと思っています。
- 普通の日本の学生と違う進路に進むことを心配していたから
- 先生は高校の大学入学実績を気にしていて、僕が日本の有名大学の代わりに、よくわからないアメリカの大学に行くから
ただし、僕はこういった反対も必要で感謝すべきだと思っています。
なぜなら、海外大学進学を目指している中それを反対をされることにより、どうしても自分が海外留学じゃないといけない理由を考えたりする機会があるから。そして、それを超えて行くことにより、さらに目標を強く感じることができるから。
もし、目標を反対されて、言い返すことができなければ、その目標もそれっぽっちの熱意だった。ということまで出しね。
ということで、この記事では、「なぜ僕がアメリカの大学を目指すことになったのか。」を語りました。
次回は、いよいよアメリカに旅立ったはみおのお話や、どうやってUCLAに合格することができたのか。などをガンガン語って行きたいと思います!
★この記事の続きはこちら→アメリカの語学学校へ進学